商品番号:T-69 秋草と雀 池上秀畝 作

商品番号:T-69 
本金屏風 ”
秋草と雀” 池上秀畝作  サイズ: 縦 175cm 横180cm×2枚(一双)(本金箔押し)
 ネット直販価格(税込み) : 350万円
本金箔の上にかかれた池上秀畝作の金屏風です。 日本を代表する日本画家によって製作された秋草と雀図です。

池上秀畝
長野県上伊那郡高遠町(現在の伊那市)に紙商兼小間物屋の次男として生れる[4]。本名は國三郎。祖父池上休柳は、家業は番頭に任せて高遠藩御用絵師狩野派を学び、慶応2年(1866年)には自らの画論『松柳問答』を刊行、その翌年亡くなっている。父池上秀華も、岡本豊彦から四条派を学び、祖父と同様、俳句短歌を詠み、茶道華道に凝るといった趣味三昧の生活ぶりだったという。今でも高遠から上伊那各地の旧家には、彼らの作品が所蔵されている。のちに秀畝が口述筆記させた自伝では、生まれた時からこのような環境だったので、絵の描き方を自然に覚えたと語っている。明治21年(1888年)頃には、自ら「國山」の号を用い、自作に「圀山」印を押すようになる。明治22年(1889年)15歳で小学校を卒業後、本格的に絵師になるために父と共に上京。瀧和亭川辺御楯を訪ねるが父は気に入らず、結局親戚から紹介され当時無名だった荒木寛畝の最初の門人・内弟子となり4年間を過ごし文人画を学ぶ[3][4]。一時は洋画も研究するが、これは寛畝がやめさせている。明治39年(1906年)同じ門下生の大岡豊子(緑畝)と結婚。同年、詩画堂塾と称していた寛畝塾は、新たに詩画会を起こし、太平洋戦争で自然解散する昭和17年まで続けられるが、秀畝はその中心人物となる。明治40年(1907年)正派同志会第1回展で二等銀牌[5]、翌年の文部省美術展覧会で初入選する。大正5年(1916年)から3年連続で文展特選となるも[1]、大正7年(1918年)同志と共に新結社を結び、文展審査に不満を示し、文展改革の口火を切る[5]。大正8年(1919年)、発足したばかりの帝展で無鑑査となる[3]。昭和8年(1933年)、帝展審査員[3]。伝神洞画塾を主宰し後進の指導に尽力した[1]。晩年になっても力作を次々と発表したが、第二次世界大戦の最中の昭和19年(1944年5月26日東京都下谷区の自宅で狭心症により没した[5]戒名は清高院殿韓山秀畝大居士。谷中霊園に葬られ、菩提寺はその近くの天台宗東叡山津梁院。昭和25年(1950年)伊那公園に、池上家三代の絵師を顕彰する『画人三代碑』が建てられた。